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2012'08.19 (Sun)

カミーユ・ピサロと印象派 永遠の近代

兵庫県立美術館で開催中の、「カミーユ・ピサロと印象派 永遠の近代」展に行ってきた。
6月に会場まで行ったにもかかわらず時間がなくて、チケットだけ買って見ずに帰ったやつに、やっと行った。(8月初旬に。最近、展覧会の感想をためまくっている。忘れないうちに書いてしまわないとー。)
自分にとってピサロの印象は、晩年に窓から見える風景を描いていた、くらいかな。あとは漠然と、印象派の人で、そういえば点描っぽい絵を描いてたかな?という程度。
印象派は特に好きというわけではない、と言いつつそれ系の展覧会には何度も行ってて、表面的な理解だけじゃなくてきちんと知りたいなという気持ちがあるので、こうやって特定の画家に焦点を当てた展覧会はいい機会でした。印象派の名品を集めた!とかそういうのよりは、主催者側の意図が見えて面白いし。
で、今回はピサロの人となりもしっかり紹介するよ!ということで、入り口までの階段の壁にちょっとした漫画的なイラスト&紹介文があった。とはいえ、エレベーターで上がっちゃったので全部は見れなかったんだけど。ひげもじゃの肖像写真は富岡鉄斎や熊谷守一を思い起こさせるような…。
キーワードは「アナーキスト」?ピサロ自身はそれほど過激な活動に身を投じたりはしてなかったみたいだけど、体制側に目をつけられてたという人の中にはスタンランの名前もあったり。
あと、ポーランド系ユダヤ人という出自も重要らしい。ドレフュス事件に対しても色々思うところがあったらしい。ドレフュス事件といえばガレやサラ・ベルナールのことも思い出したりする。同じ時代なんだよね。
ちなみにアナーキスト(無政府主義者)といっても、当時は労働者とか市民の権利とかがまだまだ確立されてない時代なので、反社会的=社会の敵というよりは、社会の弱者の味方、みたいな感じ?だったのかな。
どう過激だったのかは以下のURLに説明がある通り。今の感覚でいうと何が過激なの?と思わなくもないけど、理想化せずありのままを描くことは、挑戦的ではあったんだろうなと思う。
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1206/pissarro07.html
それに近い話で、会場内で休憩がてら、椅子に座って図録を眺めてたら、スーラの「グランド=ジャット島の日曜日」について色々書いてあって、そんな意味があったのか…とびっくり。上流階級の人が優雅に散歩してるだけかと思ったら、手前の人物が労働者で、背後の海?には沈み行く戦艦が見えたり、そこに隠された意味が…みたいな。詳しく説明できるほど頭に入ってないので意味不明ですいません。この絵とピサロの林檎の木の絵(正確なタイトルは忘れた)が並んで展示されたことがあったらしく、その2作が並ぶことで、何気ないピサロの絵にも意味が出てくるとかなんとか。うまく説明できないんだけど、挑戦的な内容だったらしい。それは定説なのか、これを書いた人の独自の解釈なのかは謎だけど、そういう解釈もあるのねーと。
ピサロのやろうとしたことがミレーとの対比で語られていたけど、たとえば農民を描くにしても真摯に仕事に打ち込む神聖化された姿じゃなくて、仕事をサボっておしゃべりとか昼寝とか、ありのままを「正直」に描くこと、というキーワードがしっくりきた。
ピサロにとって印象派とはなんだったのか。そもそも印象派の正しい定義があるのかどうか知らないけど、漠然と自分が持っているイメージとピサロのそれとは少し違っていて、見たままを描く=「感傷を排除する」のが印象派らしい。スーラやシニャックと知り合ってから取り入れた点描の技法も主観の入る隙をなくすための技術。ピサロはセザンヌと仲が良かったらしく、さっきの説明を聞くと、気が合ったんだろうなあということに納得がいくから不思議だ。
その点描技法は、制作に時間がかかりすぎること等からすぐやめちゃうんだけどね。
世間一般の「印象派」のイメージが「風景を明るい色彩で描く」みたいな感じだからか、当時の印象派も一枚岩じゃなかったのか、印象派として扱われてる人はたくさんいるけど、作家によってどういう絵を目指していたかは違うような気がする。このピサロ展で提示されていた印象派の定義は、自分にとってはちょっと新しい部分と、そうだよね!な部分が半々な感じ。(ピサロの言葉「本物の印象主義とは、客観的観察の唯一純粋な理論となり得る」)
以前、新印象派(後期印象派)と印象派は相反するものという説明をどこかで読んだ記憶があるけど、ピサロが目指していたものや、スーラやシニャックとの関係を思うと、やっぱり地続きなものだったのかな、と感じた。
ゴッホやゴーギャンもピサロを慕っていたということだけど、ゴッホはまあわかるけど、ゴーギャンってその後、印象派とは対極にある象徴派に向かうんだよねえ。
実際のところ、象徴派と印象派の関係ってどうだったんだろ?後日行った象徴派展では、印象派への反発から象徴派が~みたいな説明があったけど、やっぱりここも一枚岩ではなくて、それぞれの立場は違ってたのかな。
ゴッホは象徴派とは違うけど、あの人がやりたかったことも、以前読んだゴッホ展の図録(展覧会は見てない)から、一般的に思われてるより案外理論家だったんだよな、って思ってたところなので、その理論的な側面と、ピサロが点描画法の理論に惹かれたというところと、現れた結果は違うにしろ、近いところがあるのかなと思ったり。
あと、ピサロはコローに師事していたそうで、そのコローから言われた言葉を後に誰だか忘れたけど弟子(?)にも言ってたとか。その、コローの言葉はこんな感じ。「ヴァルール(色の相関関係)の研究を是非やりたまえ。人はものを同じように見ない。君が緑色を見るところにわたしは銀灰色と”褐色”を見る!」(こちらを参照→http://ameblo.jp/teruteru0302/entry-11279809814.html)
ここからゴーギャンの色彩に対する発言を連想した。方向性は全然違うけど、目に見える色を重視するか、心理的な色を重視するかの違いだけ?日本でも「緑の太陽」発言なんてのがあったらしいけど、それは脱線しすぎ?
絵の感想が全然ないけど、今名前を挙げた人たちの絵も展示されてた。コロー好きなので嬉しかった。ゴッホは地味め。セザンヌの絵もあった。セザンヌのことはなかなか凄いとか好きとかまでは思えないんだけど、この時代の絵画に触れ続けるうちにだんだん、その時代としては新しいことをやってたんだなあということはなんとなくわかるようになってきたかな。
印象派に限らず「近代的」といわれるものは、理想化しすぎない、身近な人物や風景を描くものだ、という概念が自分の中で育ちつつあるんだけど、それを実感した。
そして、展覧会の最後はモネの日の出(か日没)の作品で〆。あれ?これってピサロ展じゃなかったっけ(笑)と思いつつ、インパクトのある絵が最後にどーん、な展示構成でした。

コレクション展も楽しかった。
S.W.ヘイターという人の特集があったけど、全然知らないや…。似てないけどなんとなく池田満寿夫を思い出した。毎年恒例「手で見る造形」は、今年はちょっと地味だったかな…。触れるものがシンプルすぎてどう楽しんでいいのか…。去年は行き損ねたんだけど、去年のが面白そうだったなあ。その他のコレクション展示は、井田照一の版画が面白かった。ちょっと前まで京都でやってたやつ、行こうかと思いつつ行けなかったんだけど、やっぱり行けばよかったー。

売店で、ミュシャのペーパーウェイトを買ってしまった。透明アクリル(?)の立方体で、3種類のミュシャの絵が使われてるもの。モナコモンテカルロと黄道十二宮とスラヴィア。使うんかいなと思いつつ、好きな絵柄だったから、つい。こないだここに来たときに見たLEDつきルーペは少し減ってて、ミュシャのやつがなくなってた。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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