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2006'07.29 (Sat)

エミール・ガレのSwansong

以前、ビング・クロスビーのことを調べていたらどこぞの記事で彼の最晩年の活動のことを"swansong"と表現していて、どういう意味だろ?と調べたら、「芸術家の最後の作品、最後の舞台、最後の努力(活動)」という意味でした。白鳥は死ぬ間際に一番美しい声で鳴くという言い伝えに由来する表現だとか。たしかにね、ビングが亡くなる直前の2~3年は何でそんなに?ってくらい録音しまくり、ライブしまくりだったらしいから。
そして、エミール・ガレ。彼も死の直前に最高傑作を作り上げているんですね。これこそ"swansong"だなあと思った。長年工房の経営者としてお客さんの望む作品を作りつづけていたガレが、大切な人の死を経験して、自分の死を間近にして、非常に内省的な作品を作っています。
美の巨人たちという番組でも取り上げられてたらしい「手」という作品。ここに書いてある解説は今読んでる本とはちょっと違うんだけど実物はどんな印象なのかな。
2、3年前に開催されたガレの没後100年展にこの「手」が出てたらしいんだけど、私は行ってないので見てません。今更ながら行っとけば良かったと思ってるわけですが、以前も書いたように、そのときの関心の度合いによって自分の中に残るものが全然違うので、行ってたとしてもどれだけ感動できたかは怪しいものです。なんでもタイミングって大事よね。
没後100年展は行ってないけど、何年か前に天保山でやってたそこそこの規模のガレ展で「ひとよ茸」のランプを見た記憶は残ってます。あれも回顧展的なものだった気がする。展示の最後にそのランプがあって、モチーフに込められた意味を読んでちょっと感動した記憶が。
晩年の作品というと「曙と黄昏」(ベッド)も凄いよね。あのベッドで眠るのってどんな気分なんだろ。ガレの家具って実は最近まであんまり興味なかったんだけど、色々わかってくると興味が出てきます。
ガレが日本人に受ける理由は、ガレが日本に影響を受けてるからという人がいるけれど、そんなに和風なイメージはないような。日本趣味丸出しの作品もあるけど、あれはガレの一面であってそれがすべてじゃないし。
「ひとよ茸」にしろ「手」にしろ「曙と黄昏」にしろ、一般的に「綺麗」と思われるモチーフではないんですよね。キノコはまだしも、海面からぬっと突き出る手のイメージとか、蛾が大きく羽根を広げている姿とか、むしろ気味悪いと思う人もいそうな。
ただ、西洋美術ってどちらかというと叙事的なものが多くて、叙情的なもの、情緒のあるものってあまりない気がする。植物や昆虫の生態に人生を重ねてしみじみとする、そういう感覚って珍しかったんじゃないかな。逆に日本ではそれが馴染み深かったのかなと。
これもどこかで読んだことだけど、西洋というかキリスト教的思考では自然は克服するもの、支配するものであるのに対して、古来日本(東洋?)では自然と共に生きるという思想だったとか。「美」に対する考え方も、人が美しさを作り出すんじゃなくて、自然の中にある美を見出そうとするのがアールヌーヴォーなのだと。デザインに行き詰まったときは自然に触れてみる、そうすればそこに美はあるからと。そんなことを言ってたのはガレだっけ?
浮世絵やら水墨画やら焼物やら蒔絵やら象嵌やら、技法的に学ぶところも多かったかもしれないけど、どういうものを美しいと感じるかという感覚が近くて、それを表現している日本の作品に触発されたということじゃないのかな。ただ日本的なモチーフに惹かれたのではなくて、それまで西洋にはなかったものの見方とか表現の仕方というのがガレの思想を表現するのに適していたというか。そういった感性が近いことが日本人受けする理由なんじゃないかなと。
こんなこと書きつつ日本美術や西洋美術のことを理解できてるかは怪しくて、印象だけで語ってるので間違ってること書いてたらごめんなさい。
私って、あれこれ知りたい欲は旺盛だけど気が散りやすいので、結局興味を持つだけで終わってる、調べかけで放置してるものだらけです。だから過去にここで興味を持ったと書いたことも、その後の進捗どないやねんと突込まれると弱ります。熱しやすく冷めやすいわけじゃないんだけど、あれこれ抱え込みすぎて処理が追いついてないというか。色んな事を知るのは楽しいんだけど、こんなことばっかやってるから…(以下自粛)
ガレの生きた時代の背景はここが詳しいです。私もこれくらいちゃんとした文章が書けたらなあ。
ついでにミュシャについても考察してみよう。ミュシャが表現してるものって何だろう?と考えると、自然という存在の美しさを称えるというのとはちょっと違うよね。パリ時代のデザイン画は十分に自然の中から美を見出しているけど、芸術表現としての自然の取り扱い方を考えるとガレとは全然違うのかなあという気がする。季節やら一日の時間の流れやら星やら月やらの自然を擬人化して表現してることが多い。装飾家として植物を取り扱う才能は抜群だったんだろうけど、結局人間に帰結してるというか。うーん、うまくまとめられない。
寓意は大好きだよね。円がスラヴ民族の団結を象徴してるとかフリーメイソンのシンボルを描いてみたり。こういうのは象徴主義なのかな?女性の描き方はラファエル前派にも通じるものがある。人工的な美に近いような。例えばロートレックの絵のような人間臭さはない。身近な人の肖像画には対象に対する愛が感じられるけど、あくまでプライベートなものって感じで芸術的な何かを表現していたのかどうかは不明。別にそれはそれで悪くないんだけど。
なんていうかなあ、ミュシャの絵に込められたものって民族的なもの、愛国的なもの、個人的なものが多いので、日本人である自分には共感しにくい部分があるのは事実。その中にある普遍的なものを感じて感動することはあるけど、なんとなく距離を感じてしまうこともある。
晩年のスラヴ叙事詩なんてもろ「叙事的」な絵だよなあ。この時代に描かれた女性たちもモデルがいてもミュシャなりのフィルターを通して別の存在になってるものが多いよね。何かの寓意とか。この辺は古典的絵画に近いものがあるんだろうな。この辺は自分に引き寄せて考える余地はないんだよね。
ガレとの比較で考えるとあんまり褒めるところが少ないんだけど(ファンのくせに・笑)、こんなことを言いつつもやっぱり好きなわけで、理屈じゃないのよね。理由を探そうとすると小難しく考えちゃうけど、思想とか哲学とかあってもなくてもポスター画は大好きだし油彩画も好き。
ガレに限らずその「人物」に惹かれる理由って、どこか陰のある人、悲しみを背負ってる人、自分と似たところがある人(マニアックな性質とか)だからなのかなーと。波乱万丈の人生とか悲劇のヒロイン・ヒーローが人気あるように、私にとってのツボを刺激してくれるタイプってのがあるみたい。ミュシャは人物としては親近感とか知りたい欲はあまり発動させられないんだよなあ。むしろ息子のジリの方が興味あるし(笑)
もう一人大好きなガーシュインも、ジョージ・ガーシュインその人に対する興味は希薄で、周囲の人々の方がよっぽど興味がある。我ながら不思議なことだ。
まあ今はこんなこと言ってますが、いつ気が変わるともしれないので、ある日突然コロッと意見が変わってても気にしないでください。


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