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2008'08.01 (Fri)

サロメの本棚・追記

前の記事について、推敲不足で書いちゃったせいで後から細かいところを修正しまくってますが(画像を追加)、さらに追求したいことが出てきたので書いておく。
2枚の絵に出てくる合計7つの本のうち、ひとつだけ英語なのは何故なんだろう。そして、それ以外のすべてがフランス文学なのは何故なんでしょうか。
たしかワイルドの「サロメ」って最初はフランス語で発表されたんだよな。その辺が関係あるのかなあ。あれ、ビアズリーの挿絵って英語版が出版されたときだっけ?混乱してきたので調べなおしてみた。
まず、ワイルドは戯曲「サロメ」をフランス語で書く。サラ・ベルナールが上演することになったけど、お上からの検閲やら何やらで舞台はお蔵入りに。上演はされなかったけど出版はされたみたいで、そのフランス語の作品に対してビアズリーがインスピレーションを得てサロメの絵を描く。「サロメ」の英語版を出版することになってビアズリーが挿絵を担当する。って流れでOKでしょうか。
英訳したのはワイルドじゃなくてボジー(アルフレッド・ダグラス)だと聞いたけど、出版に際してワイルドはどの程度口出しできたのだろう。挿絵画家としてビアズリーを推薦したのはワイルドらしいのに出来上がりには不満だったらしい。途中で検閲したりやっぱり別の人に描かせようとかそこまでの権限はなかったんだろうか。
検閲に関してはワイルドが介入できなかったにしても、出版社の方からは口出しされてたみたいだけどね。またはもっと上の方からかもしれないけど、何枚か出版できない絵があったらしいし、本自体がそういう扱いを受けてたとか。
まあそんな薀蓄はさておき、ここで気になったのが、ビアズリーが挿絵を描いたのは英語版に対して。ビアズリーもワイルドもイギリス人。でも挿絵の中の本は主にフランス語。最初に出版されたのはフランス語。ややこしいな。
ともかくですねー、あの本棚のラインナップがすべてビアズリーの意思だったとして、この7つのタイトルが選ばれた理由ってのが気になるんだよな。イギリスにはそれにふさわしい書物がなかったのか。挿絵の中の小さな文字だから特に国に拘る必要はなかったのかな。あくまで暗喩であればいいわけで、気づいた読者がニヤリとしてくれればいいとか。
この時代のフランスとイギリスの文化的な交流ってどうなってたんだろう。ここに出てきたタイトルは英訳されてたんだろうか。フランス語で書かれたタイトルを見てわかる人は多かったんだろうか。少なくとも知識人はそうだったのかもなあ。この時代にイギリスとフランスを行き来してる人は結構いたみたいだし。ワイルドもそうだし。フランスとイギリスって海を隔てているとはいえ距離的には結構近い。でも関係は複雑よね。
デカダンスとかダンディズムとかがワイルドやビアズリーの属する世界なんだと思うけど(それがすべてではないかもしれないけど、ある一面を切り取ったときにはそうでしょう)、そこで思い浮かぶ文学作品ってのがやっぱりフランスに多いってことなのかなあ。ビアズリーがワイルドの「サロメ」をフランス語で読んでいたってことはつまりフランス語に精通していたわけだし、フランス文学にも造詣が深かったのかも。
イギリスはヴィクトリアンだっけ?表向きは品行方正で紳士淑女らしい振る舞いがよしとされてた時代だと思うんだけど、それに対する反動がワイルドとかビアズリーなのかなあ。というようなことをどこかで読んだような気がする。フランスはベルエポック、アールヌーヴォー、フレンチカンカン(どんな連想だ)ってことで、もっと自由な雰囲気。建前はあったかもしれないけどそこまで厳格なイメージはないな。あくまで私の勝手な想像だけど。
なんかあんまり結論めいたものに達してない気がするけど、きっとビアズリーにとってのサロメのイメージとフランス文学の特にデカダンとかスキャンダラスな作品ってのが通じるものがあったのかなあと。イギリスは文化的にそういうものがあんまり表立ってあらわれなかったからフランスばっかりになったってことだろうか。
そしてやっぱり気になるのがひとつだけ浮いてる感じがする「黄金のロバ」。これ、展覧会で実物を見たときにも、なんでこれだけ英語なんだろう…と不思議に思ったんだけど。いざ調べてみるとさらに時代まで全然違ってて、あえてここに並べた理由ってなんなんだろうなあと気になってしまう。きっと世の中にはビアズリーとかワイルドの研究者は山ほどいそうだから調べてる人はいそうなんだけど。この古い物語が19世紀末に話題になるようなことがあったんだろうか。
19世紀末との繋がりまではまだ追いきれてないけど、ローマ時代やギリシャにも世紀末的退廃はあったようで、そういった傾向の中にこの物語も含まれるのかな?と思ったけど、どうなんでしょう。とりあえず際どい描写があるって部分が肝なのかなあというところくらいしか今のところはわからない。ビアズリーの時代にもそういう点で有名だったんだろうか。
他に調べててわかったことは、この作品に「アモルとプシュケ」のエピソードが含まれてるってことで、それなら確かに19世紀にも好まれてたモチーフと考えられるかなあと思えるけど、もしかしてそいういうこと?
他の同時代の作品を差し置いて、これが選ばれた納得できる理由が欲しい!
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テーマ : 雑記 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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